HOME

ガオ・グリニッジ子午線が通る街

マリ共和国グリニッジ子午線モニュメントバマコからおおそ1200Km。セヴァレ(モプティ)から北東600km。ニジェール国境まで150km。

セヴァレから2時間、トンブクトゥへの道を左に見ながら舗装道路を直進すると大きな岩山が道路に迫り、モプティ以南とは全く異なる景色が広がります。

やがてマリ最高峰オンボリトンド、名峰「ファティマの手」を右手に見て最後にニジェール川を渡ればようやくガオ到着です。 ガオにはグリニッジ子午線(経度0)が通っており、これがマリの標準時となっています。(写真:グリニッジ子午線モニュメント)

Tomb of Askia アスキアの墓  (2004年世界遺産登録/文化遺産)

マリ共和国ガオのアスキアの墓ガオ中心から約800m、アスキアの墓はガオの北端にその威容をたたえています。

高さ17メートル、底部17mx15mの3段のピラミッドは土の固まりから多数の曲がった木が突き出し、泥を塗るときの足場になると同時に、アスキアの墓に不思議な存在感を与えています。

ソンガイ帝国アスキア王朝の、Askia Mohamedアスキア・モハメッドはメッカ巡礼を行い、立ち寄ったエジプトのピラミッドを見て感銘を受け、帰国後の1495年、日干し煉瓦と泥でピラミッド様の墓を作ったと言われています。

マリ共和国ガオのアスキア墳墓にあるモスク内部の写真世界遺産は、このアスキアの墓と二つの平屋根のモスク(東が男性用:写真上:右端、西が女性用:写真左)、これらを囲む壁(内壁)の外に広がる共同墓地と屋外礼拝所が指定されています。

(アスキアの墓と呼ばれていますが、彼がこの墓に埋葬されているかどうかは定かではありません。)

ソンガイ帝国の歴史

マリ共和国ソンガイ帝国の地図ソンガイ帝国は初期のDias王朝(690-1337)とSonni王朝(1337-1495)、Askia王朝(1495-1591)の3つの王朝から成り立っています。
参照)The Metropolitan Museum of Art

ディア王朝は現在のAnsongo近くKukiaに小さな王国を築き、1010年頃、サハラ交易のルート上にあるSaneyサネ(ガオの東3km)に首都を移します。
参照)
Mali Gallery 1 サネ遺跡の遺構と周辺
Mali Gallery 2  出土品

1325年、ガオはマリ帝国のマンサ・ムサ王(Kankou Mussaとも呼ぶ 下記参照)により征服されますが、ソンニ王朝Sonni Ali Ber ソンニ・アリ・ベール(1464-1492在位) の時代に弱っていたマリ帝国の大部分を征服しソンガイ帝国を樹立します。

ソンニ・アリ・ベールの死後、アスキア・モハメッド(1493-1528在位)はイスラム宗派の支持を得て新たにアスキア王朝を樹立、さらに領土を拡大し西アフリカ最大の帝国を築きます。アスキアはメッカを訪問、イスラム教を正式に国教とし、ガオはトンブクトゥと並んで文化・宗教・商業の中心となります。

16世紀の終わり頃、ソンガイ帝国は王位承継争いで疲弊し、航海ルートの開発によりサハラ交易も衰退していきます。1591Tondibiの戦いでモロッコの侵略を受け終焉を迎えます。

マリ共和国ガオの伝統的な住居1352年、ガオを訪れた探検家Ibun Batutaは次のように書いています。

「ガオはスーダンの中で最も美しく最も大きな街の一つである」

1854年、ドイツの探検家H.Barthがガオに辿り着いたとき、300か400ほどの麦わらでできた家と、たった一つのモニュメント、「アスキアの墓」が残されていただけでした。

注)写真左は伝統的な移動式住居で、内部は広く涼しくとても快適です。おそらくこうした家が並んでいたのでしょう。

参照) 
Tomb of Askia (Mali)  No 1139
LE TOBBEAU DES Askia GAO-MALI (ISBN:2-906901-38-5)

Kankou Moussa(マリ帝国 マンサ・ムサ) の遺跡

マリ共和国ガオのマンサ・ムッサ遺跡1マリ共和国ガオのマンサ・ムッサ遺跡2

1324年、メッカから帰って来たマリ帝国王マンサ・ムサ(Kan Kou Moussa)はメッカ巡礼後、ガオにモスクを建設しました。このモスクとアスキアの墓はマリの富の象徴として有名になりました。

このモスク跡とされる遺跡は1949年から発掘され、2003年より大阪の国立民族学博物館教授竹沢尚一郎氏らによって発掘調査が進められています。
参考)
ドゴン西アフリカクラブ会報
上左写真を拡大

Koima ( La Dune Rose ) 

マリ共和国ガオのラ・デューン・ロゼ写真ソンガイ語でコイマ、仏語で La Dune Rose(ロゼ色の砂丘)、英語でThe Pink Duneと呼ばれているこの砂丘は、ニジェール川対岸にあります。

コイマは、ソンガイ帝国時代一年に一度科学者(科学者、伝道師、魔術師など)が集まり、一年を占う重要な場所でした。

また、コイマはソンガイ帝国で最も高いポイントであったため、メッセージ伝達の場所でもありました。コイマで打ち鳴らされる太鼓の音は、遠く100kmまで聞こえたそうです。

Menaka メナカ

上温湯隆氏の墓標モニュメント

マリ共和国メナカの外国人墓地写真 ガオから東おおよそ300km、ニジェール国境に隣接するD'ansonogo Menaka Animal Reserveを南に抱えるメナカがあります。

このメナカには、1975年、ラクダでサハラ砂漠横断を試み亡くなった上温湯隆(かみおんゆ たかし)氏の墓標モニュメントがあります。右端が彼の墓標ですが、半分崩れていました。左の2つはここで亡くなった白人のお墓です。一つはライオンに襲われたフランス人、真ん中はわかりませんでした。
写真を拡大
崩れる前の写真

マリ原産の犬 Azawakh アザワク (アザワ)

Azawakh マリ原産の犬 アザワクの子犬写真 アザワクはメナカより東のサヘルに住むトゥアレグ遊牧民が飼育しています。トンブクトゥやガオにはいません。1981年国際畜犬連盟FCI公認。サイト・ハウンド(視覚ハウンド)。

アザワクは遊牧民の狩猟や番犬として大切に飼育され、同じ寝床で寝起きし、大きくなるまで外に出さないことにより、盗賊や野生動物などから家族を守る立派な番犬になるそうです。主人には忠実ですので、コマンドに従いむやみに人を襲うことはありません。

家族同様のアザワクは、今でも売買されることはありません。プライドの高いトゥアレグの友情の証としてプレゼントされます。

この犬は生後2ヶ月程度ですが、既に手足が長く非常にしっかりとした骨格をしています。一度、遠くで羊の放牧を見守っていたアザワクが、時速70〜80kmで走る私が乗ったトラックを追いかけ、追いつかれるかと思うほどのスピードで走って来て驚きました。

TOPに戻る