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黄金のマリ帝国(800年〜1550年)

マリの王国地図A.D. 300年頃から始まったサハラ砂漠を南北に結ぶ交易(キャラバン)は、 A.D 750年以降盛んになり、サハラ砂漠の南端サバンナ地方には交易を経済基盤とする王国が出現しました。それがガーナ王国(中心部分)、マリ帝国(青)、ソンガイ帝国(赤)です。
参照)National Museum of African Art

マリ帝国王 マンサ ムサ中でもマリ帝国は、最盛期の14世紀には現在のマリ、ガンビア、モーリタニア、セネガルを含む広大な地域を支配します。Mansa Musaマンサ・ムサ王は、当時のトンブクトゥ、ガオ、ジェンネ、の大きな都市を支配し、彼のメッカ巡礼は、< 黄金のマリ帝国 > の名前を一躍ヨーロッパに広めました。 1375年のCatalan map(現在のスペイン)には金塊を手にするマリ皇帝マンサ・ムサ Mansa Musa (右下)が描かれています。
参照)The Granger Collection

マンサ・ムサと黄金伝説

金がニンジンの様に採れる マリの支配者はマンサ(皇帝、主君)と呼ばれるようになリ、金と塩を結ぶ交易ルート上に都を築きました。アラブ商人には金鉱山の場所は知らされず、またキャラバンを盗賊から守るためにも、商人はマリ帝国の保護を必要としました。マリ帝国はマリを通過する人々に高い税金を課し、交易で巨大な富を得ます。

800年ごろから始まったマリ帝国は、14世紀マンサ・ムサの時代に最盛期を迎えます。1324年、マンサ・ムサは第一夫人を伴ってメッカに巡礼しました。その時、数千人の側近と軍隊、召使い、そして100頭のラクダと2トン以上の金を運んだとされています。途中立ち寄ったカイロでは、彼がばら撒いた黄金のせいで数年間金が暴落、12年間インフレが続いたそうです。 (諸説があり、はっきりとした数字は判りません) この巡礼は、イブン・ハルドゥーンの著書を通してヨーロッパにも伝わり、「黄金のマリ帝国」の名は一躍知られるようになりました。この<黄金伝説>が後ほどのヨーロッパの列強諸国によるアフリカ進出のきっかっけのひとつとなったのです。

参照)スミソニアン博物館所蔵
Djennneで出土したテラコッタ 13〜15c
マリ共和国ジェンネで出土したテラコッタ1マリ共和国ジェンネで出土したテラコッタ2 マリ共和国ジェンネで出土したテラコッタ3
(中央)兵士は背中に矢筒、左腕にナイフフォルダーを持っています。
(右)馬は交易でマリ帝国に持ち込まれ、巨大な富を表しています。

サハラ交易 キャラバン 〜ラクダの商隊

マリ王国のサハラ交易ルート金を求めるアラブ商人は、サハラ砂漠で切り出された岩塩を金に交換するため、数千頭のラクダと共に長い旅をしました。砂漠は海に例えられトンブクトゥ、ジェンネ、ガオは重要交易都市として繁栄します。
図左)マリ帝国時代の交易ルート
参照)The Metropolitan Museum of Art

 

マリ共和国モプティの塩市場塩は補給用として、また食料の保存用として、高温乾燥したサヘル(サハラ砂漠南縁)に住む人々にとって大変重要な物でした。金を豊富に産出するマリでは、金と塩が等価で交換されたとわれています。 アラブ商人は交易品として塩、織物、馬、ビース、陶器等を持ち込み、金、象牙、黒檀、コラナッツ(カフェインを多く含み興奮作用がある)、奴隷などと交換されました。奴隷はアラブやベルベル人の宮廷での召使い、第1夫人以外の妻、兵士、農業従事者として求められました。交易品はヨーロッパ、アラビア、インド、中国へと輸出され、同時にイスラム教が交易ルートに沿って広がって行きます。

当時砂漠超えのガイドをしていたサハラ砂漠の遊牧民は、今もキャラバン(ザライ)を組み、砂漠を渡って塩を運んでいます。港町モプティでは、一枚約50kgに切り出された大理石状の岩塩が売られているのを見ることができます。

モニュメントに見るマリ共和国の現代史

独立記念塔

マリ共和国バマコの独立記念塔1960年9月22日の独立を記念 1960年代、アフリカ諸国が相次いで宗主国から独立を宣言する中、マリ共和国も60年9月22日フランスから独立しました。しかし、国内経済の悪化、汚職などが蔓延、1968年 ムサ・トラオレによる軍事クーデターが勃発、その後1991年までトラオレによる軍事政権が続く事になります

 

学生による民主化運動のモニュメント

マリ共和国バマコのモニュメント2多数の犠牲を出した学生達の母の嘆きを表し、彼らの魂の鎮魂とその功績を称えたもの。 この軍事政権を覆す原動力となったのが学生を中心とした民主化運動でした。1988年以降、学生による軍事政権への抵抗は激しさを増すと同時に、軍部、警察の暴力も激化、多くの死傷者を出してしまいます。

この学生運動と軍部の圧力に最初に立ち上がったのが、子を傷つけられ、失った母親達でした。マリに於いて母親がこのような行動を取る事はめったにありません。また、母の声は神の声に等しいと言います。母親達の行動は社会を動かし、マスメディアに取り上げられ、民主化運動は社会全体のうねりへと発展して行きます。

マリ大統領ATT

マリ共和国大統領ご夫妻来日写真このトラオレ軍事政権の終末を決定付けたのは、再度の軍事クーデーターでした。現大統領アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(ATT頭文字を取ってアーテーテと呼ばれています)を中心とした軍内部のクーデターにより1991年トラオレ政権は崩壊、民政移管を約束してトゥーレ暫定政権が誕生します。

翌1992年に新憲法を制定、続いて大統領選挙が行われ、コナレ大統領が選出されます。 コナレ大統領の任期切れ選挙となる2002年5月の大統領選挙で、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(ATT)は国民から絶大な支持を得て当選。マリ大統領に就任します。

ATTが暫定政権時代に行った事として、学生の優遇措置があります。民主化運動の主役をねぎらい、将来のマリを背負って立つ学生を優遇、授業料の免除や生活費の支援なども行いました。しかし、この処置はマリの財政を悪化させ、民政移管後には財政は赤字に転落したそうです。コナレ大統領は財政の引き締めを行いますが、それに対して学生が反発、学内での授業ボイコットや教師によるストライキなどが行われ、単位を取得できない、あるいはあまり勉強できなかった状態が続いたそうです。

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