HOME

Djenne ジェンネ (1988年世界遺産登録/文化遺産)

天空のラピタを思い起こさせる泥のモスクと月曜市で有名なジェンネですが、普段はとても穏やかな町です。朝日に映えるモスクがとてもきれい。

マリ共和国ジェンネ泥溜場写真バニ川の船着場から1本のアスファルト道が続く。乾季になると現れる円形の泥貯場が散在する小さな橋を越えると、もう、そこはジェンネの旧市街地です。 日干し煉瓦と泥の壁。モスクを取り囲む旧市街地全体が世界遺産に指定されています。

 

 

ジェンネの旧市街地

ジェンネには舗装道路はなく、街全体が泥で出来た不思議なモノトーンの美しさがあります。スーダン様式、モロッコ様式、トゥクルール様式。時代の変遷をそのまま残した歴史の証です。(左下は、スーダンとモロッコ、トゥクロール様式の混合スタイル)

マリ共和国ジェンネ民家写真折れ曲がった路地を行くと、小さな露店や協同の水場があります。人々の話合う声や子供達がコーランを読む声が聞こえて来ます。生活の音が聞こえて来ます。

路地を右に左に・・・道に迷っても大丈夫。ジェンネは小さな街、モスクは一つしかありません。「モスクは何処?」と尋ねれば、人々は指をさし、子供達はモスク前の広場まで連れて行ってくれるでしょう。まるで当たり前のように。

マリ共和国ジェンネモスク写真静かな街も月曜市になると、朝からトラックに満載された荷物がモスク前の大広場に集まって来ます。近隣で取れた農産物や、遠くはブルキナファソからも運ばれる生活用品が所狭しと並べられます。

12:00。売る人と買う人のエネルギーが高まり一つとなって、混沌とした特別な空間の出現です。

ジェンネ泥モスク

マリ共和国ジェンネモスク写真21辺約150m、高さ20m。
ミナレット(尖塔)には「生命と創造」の象徴として、ダチョウの卵が据えられています。

スーダン様式(*)としては、世界一の規模を誇るジェンネの大モスクは1300年頃、当時の首長コンボロによって建設されました。マリ帝国、ソンガイ帝国の時代には、宗教、学問、商業の一大中心地として栄えますが、その後19世紀に破壊されてしまいます。現在のモスクは1906〜7年、当時の占領軍フランスによって再建されたものです。

*スーダン=現在の国名のスーダンと関係はなく、サハラ砂漠砂漠とその周辺(サバンナ)を含めた地域を指します。

モスクの塗り替え

マリ共和国ジェンネモスク塗り替え写真泥で出来たモスクや民家は、毎年2月〜5月、雨季に備え表面に泥が塗り直されます。この時、モスクの骨組みとなっている椰子材は足場となります。 *街の有力者(長老)達によって、およそ1ヶ月前に日取りが決まります。2008年は5月1日に行われました。

なお、ジェンネのモスクはユネスコにより大改修が行われる予定です。

ジェンネの歴史と概要

マリ共和国ジェンネジェノ遺跡写真アラビア語で「天国」を意味するジェンネは、トンブクトゥからニジェール川を約350km遡った、ニジェール川とバニ川に挟まれた内陸デルタ地帯にあります。 その都市の形成は、12世紀と推定されていますが、ジェンネに入る手前、左側には農耕と漁を営むボゾの集落遺跡、ジェンネ・ジェノ(古いジェンネという意味:推定B.C 3世紀頃)があり、今の街の原形と言われています。

ジェンネは13世紀末頃からトンブクトゥと南の砂金を産する国々とを結ぶ重要な水運拠点として発展しました。14〜16世紀、ジェンネとトンブクトゥは「双子の姉妹」と呼ばれ、マリ帝国、ソンガイ帝国時代の最盛期には、人口1万人を有する一大都市として繁栄を極めます。 しかし、16世紀末、モロッコ王国の侵略によりソンガイ帝国は滅亡、小国家が群雄割拠する時代となり、交易は衰退して行きます。

19世紀、フラニの聖戦(ジハード)の嵐は西アフリカ各地を巻き込み、戦乱の中でモスクは破壊されてしまいました。広大な地域を支配してたトゥクロール帝国(フラニ族)も、1893年フランスに降伏、崩壊します。

 

TOPに戻る